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『法華経』とは

『妙法蓮華経』について

私たちの読誦する『法華経』(ほけきょう)は、正式には『妙法蓮華経』(みょうほうれんげきょう)といい、全体が二十八品(二十八章)に分かれており、文字数にすると六万九千三百八十四文字あります。教えの内容から前半の十四章を「迹門」(しゃくもん)、後半の十四章を「本門」(ほんもん)といいます。

迹門の中心となる教えが第二章の「方便品」(ほうべんぽん)であり、本門の中心となる教えが第十六章の「如来寿量品」(にょらいじゅりょうほん)
です。
お釈迦さまの教えは、「八万四千の法門」といわれるほどたくさんありますが、特に法華経は「諸経の王」と呼ばれ、すべてのお経の中でも無上最高の教えです。

その理由(わけ)は、「方便品第二」の中で、『法華経』を説く前に説かれた数々の教えは仮の教えであり、『法華経』こそ生きとし生けるものすべてが成仏できる真実の教えであることが明らかにされていること、さらには「如来寿量品第十六」の中で、お釈迦さまはインドで初めて生まれ、出家・成道され、亡くなられたのではなく、実は、はるか遠い遠い、はかりしれないほどの過去に成仏されており、お釈迦さまの寿命は永遠不滅であり、今も、そしてはるかなる未来にいたるまで、常に私たち衆生を救い続けて下さっていることが説かれているからです。

方便品第二について

無上の悟りを得られたお釈迦さまは、仏の悟りの世界はあまりにも難解で、凡夫には容易には信ずることができないとお考えになりました。
そこで仏道の修行者を、声聞・縁覚・菩薩(しょうもん・えんがく・ぼさつ)の三乗(さんじょう)に区別し、難しい教えである『法華経』を説く時機を待って、それぞれの修行のレベルにあった仮の教え(方便)を説き続けてこられました。

そうして長い時を経て、この『法華経』の「方便品第二」に至ってはじめて、これまでの教えはあくまでも仮の教えであり、これから説く教え『法華経』こそが最上の教えであることを説き明かされるのです。
お釈迦さまは、方便品第二の中で、この世界に存在するものの一切の原理とも言うべき「十如是」(じゅうにょぜ)をお示しになり、そして本来は仏の道を志す者に三乗の区別はなく、『法華経』を心から信じ、その教えに従って修行を実践する者は、等しく仏の悟りを得ることが出来ると説かれたのです。

十如是(じゅうにょぜ)とは

すべての事物がどうのように存在し、活動し、また変化していくのか―
それを示したのが、十如是です。
 
外に現れた形 ものの特性 ものの本質
能力 動作・作用 物が生ずる直接的要因
間接的関係 因に対する結果 報いの結果
本末究竟等
はじめの「相」より終わりの「報」までの9つの如是が、皆平等であることを示す。


如来寿量品第十六について

「如来寿量品第十六」(にょらいじゅりょうほんだいじゅうろく)は、お釈迦さまの真のお姿が説かれている、『法華経』の中で最も重要な教えです。『法華経』が説かれる以前、お釈迦さまは、インドのシャカ族の王子として誕生され、難行苦行を経てブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開かれたとされていました。

この人間としてのお釈迦さまを「始成正覚の仏」(しじょうしょうがくのほとけ)といいます。
しかしながら、如来寿量品第十六では、お釈迦さまは久遠の昔から仏さまであられ、過去・現在・未来と滅する事のない、常住不滅の仏さまであることが明かされます。

このようなお釈迦さまのことを「久遠実成の仏」(くおんじつじょうのほとけ)といい、永遠にすべての人々を救済し続けておられる唯一の本当の仏さま(本仏)なのです。この真実は、如来寿量品第十六の中で「良医・良薬のたとえ」をもって説かれています。


ある所に、非常に優れた良医が、たくさんの子供たちと一緒に住んでいました。ある日、父である良医が旅へ出ましたが、留守中に子供たちは、誤って毒薬を飲み、その毒が全身に回って、もだえ苦しむことになります。

ちょうどそのとき、父である良医が帰宅しました。父の姿を見た子供たちは、非常に喜んで「助けて欲しい」と懇願します。父は早速、色・香り・よき味わいのすべてを備えた「良薬」を作り子供たちに与えます。比較的症状の軽い子供たちは、この薬を飲んでたちまち回復しますが、毒薬に本心まで深く冒された子供たちは、薬を飲もうとはせず、ただ苦しみもだえるばかりです。

このありさまを見た父は、一計を案じ、薬を飲まない子供たちに自分の死が近いことを告げ、いま一度薬を飲むことをすすめて再び他国へと旅へ出ます。そして、他国から使いを出して「父は旅先で亡くなった」と告げさせます。これを聞いた子供たちは、悲しむとともに、在りし日の父の顔を思い浮かべ、父の最後の言葉を思い出して、その良薬を服用するのです。
すると、苦しみは去り、すっかり元気を取り戻します。
父は、子供たちが薬を飲み回復した事を聞いて、急いで帰宅し再会を果たしました。


この父である「良医」がお釈迦さまであり、「良薬」が「南無妙法蓮華経」のお題目です。そして、毒を飲み苦しみもだえている子供たちが私たち一切衆生であります。

お釈迦さまは、私たちに「仏の死」という仮の姿を見せることによって、迷い悩んでいる私たちに「再びお釈迦さまにお会いしたい」という気持ちを起こさせ、良薬であるお題目の力を信じて努力・精進させようと導いておられるのです。
しかしながら、欲望にさいなまれ、煩悩に振り回されている私たちは、なかなか現実にお釈迦さまにお会いできずにいるのです。
如来寿量品第十六の「自我偈」(じがげ)の最後には、次のように説かれています。

毎自作是念(つねに自らこの念をなす)
以何令衆生(何をもってか衆生をして)
得入無上道(無上道に入り)
速成就仏身(速やかに仏身を成就することを得せしめんと)

【意味】
「私はいついかなる場所にあっても、次のことを念じ続けている。即ち、どのようにしてすべての人々を無上の仏道に入らしめ、しかも速やかに悟りに到達して仏の境地を得せしめようか、と。」

このお釈迦さまの大慈悲に、『法華経』とお題目をお唱えすることを通じて、日々感謝の気持ちを捧げて精進し、信仰に励むことが私たち顕本法華宗の弟子・信者の姿です。
 

※ 顕本法華宗 『顕本読本』『信徒必携』より引用。
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