信仰と家庭生活
日本に伝来した仏教は、時代の移り変わりと共に様々な各宗教、各教団に分かれてきました。
たとえば、平安時代に伝教大師最澄によって開かれた天台宗や、弘法大師空海によって開かれた真言宗、また鎌倉時代に開かれた浄土宗や禅宗などです。
鎌倉時代後期にご活躍された日蓮大聖人を宗祖と仰ぐ門下の教団でも、私達の顕本法華宗(京都 総本山妙満寺)をはじめ、その他多くの門流や在家教団、また新興宗教も含めますと40以上あります。また、第二次大戦後の混乱期を経て、今日までには非常に多くのいわゆる仏教系新興宗教もできております。
従って今現在、先祖代々仏教徒である方、あるいはご本尊をお祀りし(ご本尊については、ホームページ内「ご本尊について」をご参照ください。)仏壇を安置している家庭の方は、仏教徒としていずれかの仏教教団に属していることになるわけですが、仏教徒といっても、本当に自分は仏教徒であるという自覚をもって、仏事やしきたりを行っている人というのは果たしてどのくらいおられるでしょうか。
宗教心とは
私たちは誰でも心のどこかに「苦しみ・悩み・迷い」があるものです。その「苦しみ・悩み・迷い」から何とか早く逃れたいと願うのが人の心のつねでありますが、その心が“宗教心のめばえ”であり、人は皆誰しもこのめばえを持っているのです。
人間の力の限界を知って、天地自然の偉大さに畏敬の念を持ち、現実世界で起こりうる生老病死の悩みや苦しみに対し、神仏におすがりして、人間の苦悩を取り払おうとする行為が宗教です。そして、お釈迦さまのお説きになられた教えに帰依し、その教えを家庭生活・社会生活において正しく実践していこうとするのが仏教なのです。
お釈迦さまの教えに従い努力することによって、私たちは病魔におかされても心を狂わすこともなく、また他人に悪口をいわれ、または誤解され、迷惑をかけられても心を乱すこともなく、広く大きく他人を許せるようになってきます。
そして日々の生活の中で心から「ああ有難い、ああ私は守られている」という感謝の気持ちがわいてくると、信心に目覚め信仰心が深まってくるのです。
家庭内の信仰
家庭生活や社会生活において大切なことは、ひとりひとりの“心”の持ち方です。
この“心”の拠りどころは信仰です。
家庭というのは木に例えれば人の生活の根にあたります。この根がぐらついていては、いかに有能な人でも家庭内や職場においてもよい働きをすることはできませんし、他者とも心から尊重し合い、助け合うことはできません。
家庭の中における最も基本的な仏道修行に、食前・食後の「いただきます、ごちそうさま」の言葉を合掌して唱え、天地自然の恵みに感謝するという行為があります。
その他にも、私たち仏教徒はお彼岸や盂蘭盆といった仏教行事を通して、身近なご先祖様に思いを寄せ、感謝の気持ちをもって日々の行いを反省し、精進努力するよう努めていますが、これらの仏事ごとの意味や理由をよく理解し、実践することは、仏教徒としてとても重要なことです。
ある日本の仏教家がアメリカの牧師に向って、「アメリカでは信仰が日常生活にまで入っていてうらやましいですね。たとえばどの町に行ってもまず、そこには教会があってその町の中心になっているということです」と言ったそうです。
その時牧師は「いいえ、私達にとっては日本の仏教信仰こそうらやましい限りです。それは、日本では一軒一軒の各家庭に教会をもっております。各家庭の教会というのは仏壇のことです」と即座に返答したという話があります。
日本では国民の約80%が無信仰だという統計の数字もありますが、日本人が天地自然に畏敬の念をもって合掌する行為(日の出参詣や自然物への祈りなど)や、生活の中での様々な宗教行為(初詣、節分会、七五三など)を行っている姿を見れば、私たちは大変信仰心の篤い国民といえますし、また、先ほどの仏教家と牧師の話のように、日本の各家庭では仏壇を安置していることが多い(先祖代々より受け継がれてきた仏壇、新しく買い求められた仏壇の両方を含め)ということから見ても、国民の大部分はある一面“仏教徒”であるといえるのではないでしょうか。
日常生活の中で、皆さまが法事やお葬式、また各種仏教行事に出会ったとき、それが縁となり仏教徒としての自覚が芽生え、そしてお釈迦さまの教えがその人の“心”の拠りどころとなっていただければ大変嬉しく思います。また当ホームページを通じて、お釈迦さまと日蓮大聖人の正しい教えを受け継ぐ顕本法華宗に興味を持っていただき、皆さまがより良い人生を送っていただく一助になれば幸いです。
〈顕本法華宗 法式研究所〉
“仏事あれこれ”については、総本山妙満寺第302世貫首 古瀬堅徳(日宇)猊下(1917~2003)著書、『法事と戒名のすべて』(有)技興社発行を参考に掲載しています。