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顕本法華宗とは

宗名の由来について

   宗章紋:三つ竜胆(りんどう)橘
私たち顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)は、室町時代に開祖日什大正師(にちじゅうだいしょうし)によって開かれました。

当時も今と同じように、日蓮大聖人を宗祖といただく宗派が林立しておりましたが、各宗派とも明治に至るまで固有の宗名を持たず、「法華宗」あるいは、「日蓮法華宗」などと名乗っていました。
私たちの宗派も、法脈を区別するために「日什門流」「妙満寺派」などの通称を用いておりました。明治9年(1876)、私たちは「日蓮宗妙満寺派」を公称しましたが、明治31年(1898)に宗派の教義をより明確に表す「顕本法華宗」に改称し今日に至ります。

宗名の「顕本」とは、「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)という『法華経』の教えを表現した言葉からとられたものです。その意味は、「インドでご入滅されたお釈迦さまは、本当は今もなお永遠の命を持ち続け、常に人々に慈悲の心を注いでいらっしゃる」ということです。
このことは、『法華経』の中心である「如来寿量品第十六」(にょらいじゅりょうほんだいじゅうろく)の中にはっきりと説かれています。

この『法華経』の「如来寿量品第十六」に示された、お釈迦さまを「ご本仏」と仰ぎ、お釈迦さまが説かれた最も深い真実の教えを、正しく純粋に受け持ち続けている宗派、それが私たち顕本法華宗なのです。

お釈迦さまについて

お釈迦さまは、約2800年前、インド北部のシャカ族の王子として誕生されました。シッダールタと名づけられた王子は、何不自由なく大切に育まれました。

やがて、妻子をもうけ宮殿の満ち足りた暮らしを送られておりましたが、次第に人生の無常を感じ、19歳のときすべてを捨てて出家なさいます。それから、6年にもおよぶ難行苦行を積まれますが、それだけでは真の悟りは開かれないことに気付かれます。
30歳になられたお釈迦さまは、苦行で衰弱した身体を癒され、菩提樹の下に座し静かに禅定に入られます。そして7日目の朝、無上の悟りを得てブッダ(仏陀=覚者、釈迦牟尼仏)となられ、すべての人々の救済を決心されます。

以降、45年もの間、インド各地を弟子たちとともに布教の旅をお続けになられましたが、80歳にして病に倒れ、ご入滅されました。
お釈迦さまがお説きになった尊いみ教えは、最上の教えである『法華経』をはじめ、数多くの経典として今に伝えられています。(※29歳のときに出家、35歳で悟りを開かれたとする説もあります。)

宗祖日蓮大聖人について

宗祖日蓮大聖人は、鎌倉時代の貞応元年(1222)、安房国小湊(現在の千葉県鴨川市小湊)に、漁師の子として誕生されました。
12歳のときに清澄山に入り、16歳で出家されると、比叡山をはじめ高野山、南都(奈良)など各地の諸大寺で一切経を学び、法華経こそ末法の衆生を救う唯一の教えであると確信されました。

建長5年(1253)、32歳の春に故郷・清澄山の山頂で初めてお題目をお唱えになり、立教開宗を宣言されます。
大聖人は故郷を離れ、時の政治の中心であった鎌倉を拠点に、積極的に辻説法や幕府への諫暁をなされます。当時、鎌倉幕府の権威は弱体化し世の中は乱れ、また相次いで起こる天災地変や蒙古の襲来など、社会不安が増大していきました。

大聖人は、末法の世を治める教えは法華経しかないとの信念を『立正安国論』に表明して幕府に進言、世の人々には法華経の尊さを説き、念仏をはじめ他の宗派をやめて改宗するよう迫りました。
烈しい大聖人の布教の姿勢は、幕府や他宗信徒の怒りを買い、罵詈雑言を浴び、投石を受け、草庵は焼討され、さらには伊豆配流になるなど数々の法難に遭われます。

それでも日蓮大聖人はひるむことなく「不惜身命」を信条に布教を続け、誤った教えを弘める他宗の批判を繰り返されたために、ついには龍ノ口での法難、佐渡への配流となりました。
極寒の佐渡でのお暮らしは困窮を極めましたが、ここでも大聖人の正法弘通のご精神は衰えることなく、教義の集大成ともいえる『開目抄』『観心本尊抄』をはじめ多くの御書を著し、また大曼荼羅ご本尊を書き顕されています。
あしかけ4年におよぶ佐渡配流を許された大聖人は、鎌倉に帰り三度の諌曉を行います。幕府も、蒙古襲来など予言を次々と的中される大聖人のお力を認めますが、国力を挙げて法華経を信仰せよ、との願いはついに聞き入られることはありませんでした。

文永11年(1274)、大聖人は法華経信仰の道場を求めて身延山へ入られます。以後9年の間、弟子や信者の教化と法華経の行者として修行に専念されます。61歳になられた大聖人は、数々のご法難と身延山中での厳しい生活により、日を追うごとに病が重くなられました。
そこで養生のため、身延山を下りて常陸国へ湯治に向かわれます。途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区)の池上宗仲の邸に招かれますが、弘安5年(1282)10月13日、弟子信者が見守るなかついにこの地でご入滅されました。

大聖人は、「末法に法華経を弘めるものには大きな苦難があるが、それにひるまず『法華経』を弘めよ」という、お釈迦さまのお言葉を深く心に刻み、数々の苦難に立ち向かい、生涯を『法華経』に捧げられました。

その尊いご精神は、いま私たち顕本法華宗に正しく受け継がれているのです。

開祖日什大正師について

ご誕生

開祖日什大正師は、鎌倉時代の後期正和3年(1314)、奥州会津(現在の福島県会津若松市)に父・石堂太郎覚知、母・清玉姫(蘆名四郎盛宗の子女)の間に武士の子として誕生されました。

幼名を玉千代丸、長じて権太夫国重と名乗られます。3歳にして文字を読み、6歳には四書五経を素読されたと伝わっています。長らく子供に恵まれなかった両親の深い愛情と期待のなかに育まれますが、15歳のとき両親を相次いで亡くし、出家を志すようになります。

比叡山にて出家、学頭となる

19歳で比叡山に登り、名を玄妙と改められました。各地の諸大寺を訪ね、碩学に学ぶこと20年、38歳で比叡山の三千の僧侶たちの学頭となり、玄妙能化(げんみょうのうけ)と称されるまでになりました。
多くの学徒を教化された玄妙能化は、58歳のとき故郷会津へ戻り、時の城主・蘆名直盛の願いを受けて羽黒山東光寺の住職となられます。玄妙能化は、ここでもその名声をしたって集まる大勢の人々を教化されます。

人生の転機

康暦元年(1379)、66歳のときに、日蓮大聖人の御書『開目抄』と『如説修行鈔』をお読みになります。すると、長い歳月をかけて天台の教理を究めたものの、拭い去ることができなかった疑念が跡形もなく晴れていきました。
この宗祖日蓮大聖人の御書との不思議な出会い機縁とされ、玄妙能化は、名を「日什」を改めて改宗を決意されました。

固い決意

ところが玄妙能化の改宗をこころよく思わない人々も大勢いました。それどころか、改宗した玄妙能化のことを殺してしまおうと企む者まで出てきたのです。 
弟子の知らせで危うく難をのがれた日什大正師は、下総国の真間(現在の千葉県市川市)の弘法寺を訪ねて門下となると、弘法寺や中山の法華経寺にて日蓮大聖人の御書を拝読し、教えを深く学びます。

不借身命(ふしゃくしんみょう)

しかしながら、宗風はすたれ勢力争いに明け暮れる当時の日蓮大聖人門下の現状を見るにつけ、日蓮大聖人のご遺志を正しく受け継ぎ、立て直すことを誓い「経巻相承」「直受法水」(きょうがんそうじょう・じきじゅほっすい)の宗旨を立てて独立されます。

これが、顕本法華宗のはじまりです。

公家奏聞(くげそうもん)

永徳元年(1381)、大正師は68歳のご高齢にもかかわらず、宗祖の帝都弘通のご遺志を実行に移され、公家や武家に対して、精力的に法華経の尊さを訴えられました。
日什大正師の訴えは朝廷にも深い感銘を与え、その年には、朝廷より「洛中布教の綸旨」と「二位僧都」の位を賜わります。

妙満寺開創

翌年、堀川のほとり室町六条坊門にあった信者の天王寺屋通妙の屋敷の一画に「妙塔山妙満寺」を創建され、法華経帝都弘通の根本道場と定められました。
その後もたびたび朝廷や室町幕府、鎌倉公方等に、国家諌曉を試みますが、明徳2年(1391)、78歳になられた大正師は妙満寺を弟子たちに託し、故郷会津にお戻りになります。

ご入滅

翌年2月28日、妙法寺において唱題のうちに泰然とご入寂されました。
世寿79歳、ご高齢をかえりみず布教に専念された、法悦に満ちたご生涯でした。
私たち顕本法華宗は、お釈迦さまと宗祖日蓮大聖人、開祖日什大正師を三聖と仰ぎ尊びます。

私たちの願いは、お釈迦さまがお説きになった法華経と、宗祖が弘められたお題目を正しく受け継ぎ、開祖を信仰上のお手本として後世へ伝えていくことなのです。

総本山妙満寺について

妙満寺を創建した日什大正師(にちじゅうだいしょうし)は、もと天台宗の僧侶で名を玄妙(げんみょう)といい、比叡山の三千の僧侶の学頭にまでなった人でした。

故郷の会津で日蓮大聖人の教えに触れられると、67才というご高齢にもかかわらず、信仰を改められ、日什(にちじゅう)と名乗られ、日蓮大聖人の弟子とならんと門下に入られました。

そして、日什大正師は、日蓮大聖人のご遺志である、帝都弘通(ていとぐづう)を志し、御歳68の老体をかえりみず都に上がられ、関白を通じて、時の帝・後円融天皇(ごえんゆうてんのう)に上奏を行い、その結果、二位僧都(にいのそうづ)の位と「洛中布教の綸旨」(らくちゅうふきょうのりんじ)を賜り、康応元年(1389)六条坊門室町(ろくじょうぼうもんむろまち)に妙塔山妙満寺(みょうとうざんみょうまんじ)
を建立し、根本道場と定められました。
江戸時代の妙満寺(寺町二条)境内古図
妙満寺はその後、応仁の乱など幾度かの兵火に遭い、そのつど洛中に寺域を移し、興隆してきましたが、天文5年(1536)、比叡山の僧徒による焼き討ちで二十一坊の大伽藍を焼失。一時は泉州の堺に逃れ、天文11年(1542)に元の地に復興したという苦難の時代もありました。
そして、天正11年(1583)豊臣秀吉の時代に寺町二条に移され400年にわたり「寺町二条の妙満寺」と親しまれてきました。
その後、昭和43年(1968)に「昭和の大遷堂」を挙行。現在の岩倉の地に移り今日に至ります。

日什大正師は、稀代の碩学でありながら一巻の書物をも残されませんでした。
これは「その書物のために仏の教えを誤解されてはならない」と配慮されたためであり、釈尊より日蓮大聖人に受け継がれた正しい教えを、自分の意見をはさまず素直に受け持つように戒めました。

これを『法華経』を通じて釈尊の教えをじかに受け継ぎ、御書を通じて日蓮大聖人の教えをじかに受け継ぐことができる「経巻相承・直受法水」(きょうがんそうじょう・じきじゅほっすい)といい、顕本法華宗の宗是となっています。


※ 顕本法華宗 『顕本読本』『信徒必携』より引用。

宗務院について

顕本法華宗宗務院とは、全国の顕本法華宗の寺院・教会が運営していく上で必要な諸事務を担当する機関です。また宗門の運営を統括し、本宗の目的を実現するための各種業務も行っております。これらを実行するため教務部、布教部、財務部、庶務部、社会部が設けられています。宗内外への布教・教化や僧侶育成のための妙塔学林、その他、史料調査委員会・教学研究所・法式研究所・布教師会・顕本青少年錬成会、布教誌『心の宝』等の宗門刊行物も取り扱っております。 


宗務総長 河野 時巧(第5教区 千葉県 妙覚寺住職)
宗務次長 小松 正学(第2教区 千葉県 要行寺住職)
財務部長 吉田 諦規(第6教区 愛知県 妙円寺、本常寺住職)
布教部長 小川 正展(第5教区 千葉県 願成就寺、寿福寺、本成寺、本妙寺、第1教区 東京都 宝蔵寺住職)
庶務部長 金坂 正道(第5教区 千葉県 法華寺、本因寺住職)
社会部長 森田 修應(第6教区 福井県 本行寺、第8教区 鳥取県 法泉寺住職)
教務部長 二宮 無尽(第1教区 東京都 常楽寺住職)


住 所 
〒606-0015
京都市左京区岩倉幡枝町91 総本山 妙満寺内
連絡先
TEL:075-791-7171
FAX:075-791-7267
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